皆さん、こんにちは。
横浜在住特派員の藤戸です。このブログも今回が最終回となりました。遠く関東に住み、元々は縁もゆかりもなかった一個人が見てきた南三陸の魅力、最後は「歴史とつながる」をテーマにお送りします。
前回、南三陸の歴史を取り上げました。そのなかで朝日館を紹介しましたが、他にも長い歴史を感じられる場所がたくさんあります。
重複を恐れずにいくつか書き並べていきますと、まずは9世紀以来の修験の山として知られる田束山。私がここで紹介するまでもない南三陸随一の展望スポットですが、山頂には経塚が無数に残っています。これは50年前の発掘調査で平安末期、奥州藤原氏による埋蔵のものであることがわかっています。
南三陸一帯では金の産出があり、金色堂で知られる藤原氏との密接な関係を偲ばせてくれます。燃えるようなツツジとともに、経塚群も楽しんでほしいと思います。
入谷の払川では板碑を見ることができます。中世によく作られた供養塔で、主に緑泥片岩を用いた石塔です。払川のシンボルとも言える千本桂の根本近くに、道標や成長した桂の取り込まれてしまった編年不明の板碑があるほか、集落周辺の山の斜面には打ち捨てられた板碑が無造作に転がっていました。もうこれは宝の山ですね。紀年や題字が読めるものもあります。払川は田束山に登拝する人々の拠点となった集落ですから、その歴史の重厚さが伝わってきます。
このあたりは、以前に観光協会のイベントプログラムで、ガイドまでついていただいて歩くことができました。
入谷には貞任山の名にあるように安倍貞任の伝説が残ります。また、各所に巨石が見られ、これが結びついて安倍貞任が踏みしめた石、という伝承が残るものもあります。これら巨石は、入谷では古来そこに神性を感じ、尊崇してきました。石の平地区の巨石は長さが10mを超える大きさで、苔むしたそれを見上げればたしかに、神が坐すと思わずにいられません。この岩には亀裂があって、正直者は通り抜けられるそうです。当時9歳だった長女は通れました。私は…内緒です。
入谷で歴史を感じるなら外せないのは「ひころの里」ですね。近世末期の在郷藩士須藤家の屋敷を見学できます。広い土間と堅牢な作りが素晴らしいです。
ここの「シルク館」で学べるのは、近世にこの地域に導入された養蚕についてです。
明治日本の発展を支えた養蚕も、江戸時代はその興隆期にあたり、品質は低いものでした。諸藩が競って新たな換金性の高い物産を振興するなか、仙台藩に養蚕を導入したのが山内甚之丞(1695~1798)という人物です。
彼は入谷に生まれ、長じて最新の養蚕を学び、その普及に努めました。歴史の教科書に載るような著名人でなくても、地域の発展に貢献した偉人がいるのは誇らしいものです。
入谷の弥生公園には彼の墓所があり、立派な顕彰碑があります。庭園が整備された緑地の中の公園で、こうやって丁寧に祀る町の方々の優しさを感じました。そして、その養蚕の伝統は、例えばYes工房さんでまゆクラフト体験で感じることができます。
そしてさんさん商店街に戻れば、オクトパス君とともにモアイが迎えてくれます。
モアイは歴史? もちろん、立派な南三陸の歴史ですよね。1960年のチリ地震津波から生まれた交流が今につながっています。60年の積み重ねってすごいですね。
遠い昔の歴史は今と違う世界のことではありません。交通の要衝として栄えた払川や、巨石に親しんできた入谷の人々、戦国の世に朝日館に拠った武士たち、山内甚之丞の努力、すべてが同じ時間軸にあります。私たちはそこに行けば、その歴史と繋がれます。町をめぐり歩くことで、その沢山の積み重ねを肌で感じました。
その歴史の上に東日本大震災もあります。10年経った震災は町の歴史として刻まれました。そして、町の方々が作ろうとしている未来という新たな歴史が積み重ねられています。私もそれをきっかけに南三陸にご縁ができました。気がつけばここにこうやって記事を書かせていただくことになって、驚いています。
ボランティアだったり、観光だったり、町歩きだったり、体験だったり、そして町の方々との関わりだったり、そのすべてが、南三陸の「歴史」に繋がり、未来へ繋がると信じています。
6回に亘る記事をご覧いただき、ありがとうございました。最後は柄にもないタッチですが、ちょっとだけ思いを書かせていただきました。
コロナ禍で以前のように行けなくなっていますが、これからも帰省するような気持ちで、そして新たな魅力を探しに町に行きたいと思います。
それでは、読んでくださった皆さん、町のどこかでお会いしましょう。私はまたいろいろなところに出没します!
最後は一番好きな袖浜の風景を…
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