自然災害と向き合う2日間の語り部ツアー(まちあるき語り部「椿の避難道コース」&避難所紹介)

■実施概要
【日時】2022年3月13日 13:00~14:30
【人数】25名

今回は、3人の語り部の案内の下、震災から12年目を迎えた町の様子を見て・歩いて・話を聴く特別企画「自然災害と向き合う2日間の語り部ツアー」を実施しました。ツアーは3つのプログラムで構成されています。1日目には津波浸水エリアバス車窓案内を午前と午後に行い、2日目はまちあるき語り部を行いました。
住民の数だけ体験談があります。今回のツアーで案内してくださった3人の語り部は、回る場所から話す内容、すべてが異なります。3人のそれぞれの体験談が、皆さんの普段生活している地域で起こりうる自然災害や災害が起きた時の避難計画について、改めて考える機会になれば幸いです。

今回の語り部は高橋長泰さんです。高橋さんは、味噌・醤油を醸造する老舗「高長醸造」を町内で営んでいます。車の運転中に大きな地震に遭い、津波が来ると確信した高橋さん。すぐさま自宅へ戻り、指定避難場所に避難した後、より高台にある志津川小学校へ向かったそうです。津波で自宅も店舗も流失してしまった髙橋さんは、志津川小学校で避難所生活を送りました。避難所では自治会長を務め、運営の中心となって活躍されました。今回のプログラムでは、高橋さんが避難に使った「椿の避難道」を一緒に歩き、当時の体験や避難所運営についてお話いただきました。

午前中に雨が降ったこともあり、肌寒い気温の中、語り部はスタート。震災当時は雪が降って寒かったそうなので、あの日もこんな寒さだったのかなと想像しながら歩き始めました。
「これは震災から1ヶ月くらい経ってからの写真です。よく見るとね、うちが味噌作りに使用していたタンクが写っているんですよ。初代の名前が書かれているタンクが瓦礫と共に流れ着いたのを偶然見つけたんです」
高長醸造は大正時代に創業し、南三陸町志津川地区で代々味噌・醤油の醸造を行ってきた老舗でした。震災で自宅もお店も流失した高橋さん。失意に暮れ、店舗の再開も考えられずにいた中、タンクの発見は髙橋さんに「もう一度頑張ろう」という希望を与えたそうです。


高橋さんは、当時の避難を振り返ります。
「車を運転しているときに地震がきて、はね上がるような揺れを感じました。電柱が折れるんじゃないかって思うくらいの揺れだったから、津波が来ると思いました。潮位の変化を見ながらまずは家に戻ったんです。家にいた家族と合流して、車を置いて、当時指定避難所だった上の山公園に避難しました」
当時、携帯電話で撮影した写真を見せながら、避難した道を案内してくれました。自宅のあった場所や町の様子、避難するときに見えた津波の様子など、たくさんの写真から、当時の悲惨な状況が想像できました。

高橋さんが最初に避難した上の山公園へ着きました。当時、ここまで避難してきた時、自分が想定していた状況と違うことに困惑したと語ります。
「日頃の避難訓練では、災害対策本部があって、役場職員や消防士さんがいるんです。だから、ここに来たら大丈夫だろうって思っていたんです。けれども、公園に着いたら、本部もないし、職員もいなくて驚きました」
高橋さんは公園の奥から様子を伺っていました。すると、同じく避難していた住民から、「危ない、逃げろ」という声が聞こえたそうです。
「波が防潮堤を超えたんですよ。波が家屋を倒していくから、土煙が上がっている様子も見えました。私も恐怖を覚えて、急いで坂を上りました」
当時は指定避難場所だった上の山公園、その入り口付近まで津波が来たそうです。高橋さんは波が来た後の写真を見せてくれました。公園の木の根元は海水に浸かったため濡れていて、地面には海水が水溜りになっています。本当にギリギリのところまで波が来たんだなと、当時の緊迫した状況が伺えました。

その後、高橋さんはもっと高台へ避難しようと、その場にいた町民と志津川小学校へ避難することしました。その時使った道が「椿の避難道」です。当時は地元の大人しか知らない裏道だったそうです。細い道や山の中を歩かなくてはいけないため、若い人と高齢者がペアになって、避難しました。高橋さんは避難道を歩きながら、当時のことを語ります
「道の途中で電柱が倒れていて、電線が切れているところがあったんですよ。私は、感電するから気をつけろよって周りに言ったんですけど、停電しているんだから大丈夫だよって返されて、あぁそっか、って思って。そこで自分が焦っていることに気づきました」
「避難所生活が始まってから、小学校の前で火を焚いて、火の番をしていたんです。その時、ここにある倒木を使いましたね」

不安定な山道を10分ほど歩いて、志津川小学校の避難所に到着しました。高橋さんは窓ガラスが割れて寒い体育館で一夜を過ごしたそうです。翌日、避難所におにぎりの炊き出しが届きました。身一つで避難した人がほとんどだったため、大勢の人がしばらく何も食べていませんでした。ピンポン玉くらいの小さなおにぎりは、あっという間になくなりました。その様子を見た高橋さんは、このままだとまずい、と感じたそうです。
「みんなに炊き出しが行き渡らないんじゃないかと思いました。混乱を避けるために、地区ごとに班長を決めて、数日後には自治会本部を立ち上げました。自治会本部で避難所運営を進めていったんです」
周りに背中を押される形で自治会長になった高橋さん。自治会本部を立ち上げたものの、最初は何をすればいいのかがわからなかったそうです。それまで、体育館での避難所生活を経験したことも想定したこともありませんでした。大勢の住民が生活するために、どんなことが必要なのか、まったく想像ができなかったと言います。
「班長たちと毎日会議していたんだけど、何を話しているのかって覗きにくるんですよね。だから、体育館のステージで会議することで、きちんと開示するようにしたんです。そうしたら、様子を伺う人はいなくなりましたね」
「卓球台を利用して本部を作ったり、安否確認の張り紙を掲示したり、車上荒らしや不審車両対策として外で火の番をしたり。避難しているみんなが不安だから、ささいなことでトラブルになると思って、いろんなことを考えて試しました。失敗したこともありましたけどね」
高橋さんは避難所運営の苦労や試行錯誤を振り返ります。自分も家や店を失っていた状況下であるにもかかわらず、避難住民の生活を考えて、避難所運営していくというのは、容易なことではなかったと思います。

参加者の方からは
「震災後のボランティアで町に来た時、住民の方から裏山に逃げたって聞いていたけど、正直まったくイメージできなかった。今回案内してもらって、あの日住民がどんな道を歩いて、どういう気持ちだったか想像することができてよかった」
「公務員の避難所運営でも不満に思う人がいる中で、同じ立場の住民が避難所運営していたというのは驚いた。人間関係の面でも苦労されたんじゃないかと思うが、助け合って避難所運営していたこともお話から伺えた。試行錯誤した経験をありのまま話してくれることは、私たちにとっても教訓になる」
と感想を頂きました。

自然災害が起きた時、場合によっては避難所で生活することもあります。自分が住んでいる地域の避難所はどこかを考えることはあっても、その後の避難所生活を想像する機会は少ないのかもしれません。今回、避難路を歩き、避難所生活についてお話を伺ったことで、参加された方はより体感的に、より現実的に理解を深めることができたのではないでしょうか。

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