ここ数カ月は、日々元々あった被災した、街並み跡地は復興工事の産業車が、右や左と、どっちの方向に視線を延ばしても、移動している専用車~重機の様子が目に映る。
そのような業務に携わる関係者の方々は、県外の方、本州以外からと、多くの人達がそれぞれのつながりがある人、家族を残して我が町に入って頂き、力を注いで頂いて下さっていることに感謝です。秋田、遠くは宮崎県から来たという方。
そのような関係者、工業社、産業車、?百人、?十台と、?組織、、今までの自分の人生まで、生まれ育った土地で、この災害が無かったら、見ることも、この様な状況にも、出くわすこともない自分であり、、、この地域の様変わりする、光景に驚きと、複雑な思いでとらえている今日この頃です。
そんな思いの中、丁度勤務している場所の、近くに計画されている、高台災害住宅(公営?)?、、、立地するであろうという場所があり、、時間の合間を見て現場を除くことが出来たので、その場にいた関係者の方々より許可を頂き、話を少しだが伺うことが出来たので、、、書き込みさせて頂きます。
その場所は、あの震災時自分の住む自宅から2キロ以上も逃げてきて、海抜13~4メートルもあろうという場所まで上がっても、、波から追われながら、山に登れーーの掛け声で、登り助けられた山、、、自分を救ってくれた場所、私の実母の親戚筋の山、、、そこが今回被災した地域の人達の居住地の一部となる。
今後どのように変わっても、その時のことは生ある限り、、、自分の脳裏から離れることはないであろう。
ゆえに、その場所を記憶しておきたい思いでいる。
今年に入ってから木々の伐採作業が始まり、着々と造成工事が始まってきたその場所は半分以上、山も削られていた。
広大な面積に驚きながらその場所を記録してきたが、その向かいには以前より暮らしていた地域が震災から逃れた家並みが連なっていて、元あった町がそこにあるような錯覚さえ感じた自分でした。
これから住む方々がこの周辺に、賑わいを潤して町に元の元気を感じさせてくれる場所になってほしい思いです。
この場所に住んでいた今は亡き、兄夫婦もこの町の空で、移ろいを感じながら見て行ってくれるであろうと、おもいたいじぶんでした。
現在は地域を離れている人々が、早く戻り落ち着いて暮らせることをも、願っています。町のみんなが、大声で笑って、話が出来る日が近ずくことを願いながら、記録の一部にしたいです。